2026年2月10日
先日、「書展」へ行ってきました。
会場に入った瞬間、空気がピンと張るんですよね。
静かなのに、迫力がある。
あの感じ、なんとも言えません。
周りを歩く人たちも、自然と声が小さくなる。
まるで「ここでは深呼吸すら美しくしなさい」
と言われているような…
(いや、さすがにそこまでは言われてない)。
実は私も書をやっています。
で、教わっている先生、いわゆる師匠の作品が
展示されていて、当然のように足が止まりました。
いつも思うのですが、
師匠の字って「線」が線じゃないんです。
一本の線に、情報量が多い。
漫画で言うと、セリフが少ないのに
泣かせてくる名シーンみたいな。
こっちは「え、これ一本でそんなに語れる!?」
ってなるんです。
字を見ていると、
そこに至るまでの“筆の持っていき方”が
見えてくるんですよね。
「ここで一瞬止めたな」とか、
「ここは迷ってないな」とか。
さらに墨の濃淡、紙の選定、余白の取り方…
一つひとつが、見るたびに勉強になる。
正直、感動しながらも心のどこかで
「くぅ…悔しい…(でも好き)」ってなる。
人はそれを、尊敬と嫉妬のミックスと呼ぶのでしょう。
で、ここからが私の持論なんですが。
私が書をやっている理由は、
単に「かっこいいから」だけじゃありません
(もちろん、それもある)。
書って、家づくりに通じるんです。
「想いを表す」って、本当に難しい。
頭の中ではイメージできているんです。
「こういう線にしたい」
「こういう余韻を残したい」って。
でも、紙に表そうとした瞬間、
現実が来る。
脳と体と筋肉と…。
そしてなぜか、心の中の雑念まで参加してくる。
「今日の昼ご飯何だっけ?」
みたいな余計なやつ。
そういうのが一気に筆先に乗って、
線がブレる。
書って、正直すぎるんですよ。
嘘つけない。
家づくりも同じです。
お客様の「こう暮らしたい」
という想いがある。
こっちも「こうすれば叶う」
というイメージがある。
でも、それを間取りに落とす、
素材に落とす、納まりに落とす
現場で形にする…その途中には
いくつもの格闘がある。
理想と現実。
動線と収納。
デザインと暮らしやすさ。
予算と夢。
(そして“奥様の直感”と“ご主人の
合理性”がぶつかる時、現場じゃないのに
現場感が出ます。
これはもう、家づくり界の風物詩。)
でも、その格闘を乗り越えて
「形」にできるのは、結局、
長年の鍛錬があるからなんですよね。
書もそう。家づくりもそう。
「センスですか?」って聞かれることがあります。
もちろんセンスもある。
けれど、センスだけでは最後まで持たない。
最後にものを言うのは、
積み上げた経験と、手を動かした量です。
書をやっていると、
一本の線にも「想い」が
乗っているのがわかるようになります。
線が太いとか細いとか、
上手いとか下手とか、それ以前に、
そこに“気配”がある。
迷いの線、
覚悟の線、
優しい線、
強い線。
同じ「一」でも、
書く人が違うと別の生き物になる。
家も同じです。
同じ大きさ、同じ間取りに見えても、
住んだ時の空気が違う。
玄関でホッとする家。
リビングで自然と笑顔が増える家。
キッチンに立つと「よし、やるか」と背筋が伸びる家。
そういう“気配”って、
間取りの線一本、
職人の納まり一つ、
素材の選び方、
光の入れ方…
そういう細部の積み重ねで決まるんです。
だから私は思うんです。
家って、箱じゃない。
想いの結晶なんだ、と。
鍛錬こそが経験となり
その経験が良い家の形になる。
書を磨く時間が、家づくりの精度を上げる。
家づくりの現場が、書の線に芯を入れる。
どっちも、簡単には手に入らない。
だから面白いし、奥深い。
書展の帰り道、なんだか背筋が伸びました。
「よし、また鍛錬だな」と。
…と言いつつ、帰りにちょっと甘いものも
買いました。
鍛錬にも糖分は必要です。
たぶん。きっと。間違いない。
(ここは自信あります)
改めて思うと、書も家づくりも、
本当に奥深い。
今日も一本の線から。
今日も一本の柱から。
想いを形にする仕事を、
丁寧に積み重ねていきます。









